第342回 ピレネーをうろうろ フランスにめろめろ⑦ ~魂を満たす栄養~
トゥールーズを発つ朝、例によって早起きしたので町のまだ歩いていない部分を探索することにしました。ミディ運河沿いや旧市街地を気ままに歩いていると、早足の私ですら追いつかないほど足早に人々が職場に向かっていきます。それでもちっともせかせかしたものを感じないのは、人口の密集度が東京のようなレベルではないから…あるいは、街中に焼きたてのパンのいい匂いが漂っているからかもしれません。ガイドブックには載っていない、中世に建てられた素晴らしい大聖堂や、もう少し後になって建てられた劇場も、すべてレンガ造り。この街がのびやかな統一感を持っているのは、建てられた時代はそれぞれ異なっていても、一つのスタイルが貫かれているからなのでしょう。
チェックアウトの時、カウンターに昨日カスレのお店を教えてくれたトニーがいました。「スズキサン、オハヨウゴザイマス!」「あれ?日本語ご存知なんですか?」「ワタシワー、ニホンゴベンキョーシテイマス」「え?ほんと?」「(冗談だよ、というジェスチャーをして)いやいや、ハハハ…。あ、昨日はカスレ、召し上がれました?」「ええ、もう堪能しました。ありがとう!日本に帰ったらあの味、間違いなく恋しくなるだろうな…」「おやおや、じゃぁ輸入しなくっちゃね。僕にも何かお手伝いできることはあるかな?」最後までフレンドリーな彼でした。
早足で職場に向かっていた彼らの表情には、日本のビジネスマンのそれと共通するものがありましたが、昨夜のレストランのホール係といいこのトニーといい、仕事そのものに“お仕事”を感じさせないような、本当の意味でのプロフェッショナリズムがあるように思いました。きっとこの国の人々は、マニュアルやセオリーによってではなく、自身の感覚によって判断し、行動しているのです。心地のいいもの、美しいものを潜在的に探求しながら…なんて考えながら、バスク地方へと向かいました。
モーリス・ラヴェルの生まれた地は、バイヨンヌよりもその隣りの有名な高級リゾート地、ビアリッツに近かったのですが、“王様たちの海岸”という異名を持つこの地で、観光客のスタンスに合わせて育ってきたと思しき賑やかな高級感にはそれほど興味惹かれなかったので、むしろフランスにおけるチョコレートの発祥の地で、鴨のフォアグラ、生ハムの産地として知られるグルメの町、バイヨンヌに滞在することにしたのでした。
バスク名物には、チョコレートやフォアグラや岩塩系の塩の他、ペピラドと呼ばれる赤唐辛子があります。赤唐辛子と言っても日本の赤ピーマンに近い、辛味の少ないもので、それを使った野菜の煮込みにご当地産の生ハム(ここのはとても品質がよいことで定評があり、『生ハム祭り』なるものまであるほどです)がのって出てくる、その名もペピラドという煮込みや、白身の魚のすり身をその赤トウガラシに詰めて焼いたもの、あるいは鶏肉を玉ねぎ、にんにくと炒め、赤唐辛子やトマトと煮込んだ“鶏肉のバスク風煮込み”などの郷土料理にも事欠きません。
そんなことから、小さくて素朴な田舎町をイメージしていたのですが、実際に降り立ってみると意外にも、かなり観光地の匂いがありました。確かに小さな街ではあるのですが、ここで今回の旅では初めて、大型観光バスなるものを見たのです。旧市街地の路地に軒を連ねる小さなチョコレート屋さん、フォアグラや生ハムのお店、“バスク織り”をはじめとするリネンを扱うお土産物屋さん…。
東京で言うところの『資生堂パーラー』のような『千疋屋』のような老舗パーラーに入り、名物の“ショコラ・ムソー”をオーダーしてみました。銀のトレーに、スフレのように盛り上がったショコラ・ショー(チョコレートを溶かして作るココア)、濃厚な生クリームが添えられ、さらに傍らのミルクポットのような入れ物に二杯目のおかわりの分が入っています!その味わいは、人によってはひと口でもう満足してしまうほどにこっくりと甘いのですが私はさらに生クリームを加えたりしながら、軽く二杯目もクリアしてしまいました。このメニュー、お値段はどこも大体似たり寄ったりで、日本円にして千円弱と決してお安くないのですが、売っているチョコレートそのものの値段から考えると妥当なのでしょう(チョコレートも普通の板チョコのサイズで同じお値段です!)。
郷土料理ペピラドは、カスレと同様、土鍋のような材質の耐熱の平皿に出てきました。いくらでも食べられるような、やさしい“おふくろの味”でした。バターではなくオリーブオイル。ソースではなくトマト。やはり、どこかスペインの香りがします。ちなみに、ペピラドと一緒にオーダーしたグラスワインは、1、5ユーロ(約240円)でした。
塩です。塩がとてもいい感じなのです。そういえば、さっき工場を見学させてもらったバイヨンヌの老舗生ハム店の人も、言っていたっけ「うちでは、トウモロコシで特別に飼育した豚の肉を使ってますが、肉質もさることながら、仕込みの最初の段階での“塩”が、大変重要なのです。ここではバイヨンヌ産の塩にハーブ、そしてもちろん、乾燥させたバイヨンヌ産の有名な赤唐辛子ペピラドなどのスパイスを伝統的なレシピで配合した、これを使っています(その塩を手にとって)。よろしかったらちょっと舐めてみて下さい」。その後、低温で数ヶ月~一年にわたって熟成され、重量が半分以下にまで凝縮するのだそうです。肉がしまり、味がまとまり旨みが増す…。そこまで説明を受けて、食べてみたくならない人はいないでしょう?とばかりに、見学後には試食が用意されていて、生ハムのみならずフォアグラやら鴨のテリーヌなどを味わうことができました。
現地のものを使い、時間をかけて、時代を超えて受け継がれてきた知恵を借りて“食”に到る…これこそ、スローフードの理念です。翌日訪れるボルドーはワインで世界的に知られる町ですが、ワインもまた然り。その土地の気候が育んだ葡萄という農作物を人間の英知をもって熟成させる時、どこかに現地の食材とのマリアージュのイメージがあるのでしょう。まさに、文化のコラボレーションです。
フランス料理も、ワインも、クラシック音楽も…。もともとは高級志向なんかではないのです。フランス料理は、土地の伝統にお母さんの愛情がたっぷりブレンドされた郷土料理から、ワインは大地の恵みと人間の知恵のアンサンブルから、そしてクラシック音楽は作り手と語り手との時空を超えた対話から生り、いずれも人の魂を満たす栄養なのです。
イギリス人のようにファンシーな庭を作りこむのではなく、ドイツ人のように立派な建物を造り上げるのではなく、イタリア人のようにドラマを歌い上げるのでもなく…。フランス人が求めているのは、“ラヴィアン・ローズ(バラ色の人生)”、つまりナチュラルに人生を愉しむこと、につきるのではないでしょうか。そういえば、ローズという色はピンクと並んで幸せ、快楽のシンボルです。バラの色も様々なように、幸せの感じ方も、人それぞれ。
バイヨンヌを発ち、ピレネーにいよいよ別れを告げるとき、私の耳の中に鳴っていたのはラヴェルでもフォーレでもなく、エディット・ピアフでした。
(ピレネーをうろうろ フランスにめろめろ 完)