第332回 夢の島 “孤留島(コルトー)”
「一番影響を受けたピアニストは誰ですか?」という質問を受ける時、「う~ん…誰が一番、というのは難しいのですが…」なんて言いつつも、実はまっ先に頭に浮かんでいるのがアルフレッド・コルトー(1877~1962)です。中学の頃に彼の弾くショパンの『24の前奏曲』に出会い、それは大きな衝撃を受けました。
それまでは、楽譜は恐ろしいまでに完璧に、しかもクリアな発音で弾くべきで、それを目指して練習するものだと思い込んでいましたし、そう教育されていた気がします。それが、彼の演奏はペダルも濁りがちで発音は曖昧、ミスタッチは数え切れないほどだし、曲の場面によっては「もう、どうなったってかまわない!」とでも言うように、崩れてたまま突っ走ってしまったりもしているのです。でも一方で、それがまったく気にならないほどに豊かで深い音楽の息吹に満ち満ちていて、一つ一つのフレーズはえもいえぬ朗読のように“歌われ”、何度も何度も繰り返し触れたくなるような、麻薬的魅力に溢れているのですから…思春期の私は大混乱に陥ってしまいました。
それはあたかも、「一生懸命勉強して、いい大学に入っていい企業に就職し、安定した人生を送るのが幸せよ」と、教えられ、必死にそれを目指していた子供が、「それって、案外つまらないと思わない?だってそれは、人生を“真っ当に”過ごすためのものでしょう?そのために“人間として生きることを楽しむ”ことが犠牲になってもいいの?美しいもの、愛しいもの、憂い、喜び、ハラハラやドキドキ…めいっぱい色んな刺激を受けて感性を磨き続け、死ぬまで生き生きしていたいと思わない?…だったら、僕と遊ぼうよ!」なんて、悪魔のささやきを聞いてしまったような感じでした。
「弾くんじゃない、夢みるんだよ」と、彼がレッスンで生徒に教えていたことは、以前このエッセイでも紹介しましたが、そんな彼が「いつかは住んでみたい」と夢みていた島があったのは知りませんでした。しかも、彼の名前までつけられていたその島が、日本にあったなんて!
1952年に来日した時、彼は「日本は素晴らしい。なぜか外国にいる気がしない。永久にここに住んでも悔いはない。こんなふうに思う国はそうあるものじゃない」と、言っていたそうですが、とりわけ下関を訪れた時に滞在した川棚村(当時。今は豊浦町と合併)のホテルから見える島々や響灘の美しさに魅せられ、その沖合いに無人島を見つけて「あそこに住みたい。売ってくれないか」と、あろうことに村長に直談判します。皆、はじめは冗談だろうと思っていたのですが、彼が本気で言っているとわかった川棚村長は「あなたが永久にお住みになるのでしたら、あの島は無償で差し上げましょう」と答えたのだそうです。コルトーは非常に喜んで「トレビアン!必ずまた戻るよ」と言って、何度も村長と握手を交わし、「わたしの思いは、ひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたといいます。その無人島こそ、弧留島と名づけられた島でした。
パリに戻った後も周囲の人々に「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話しては、『弧留島』と彫った印鑑を書類のサインの脇に必ず押していた、というエピソードも残っています。その後、体が弱ってからも家族には「日本の、僕の夢の島にもう一度行きたい」と話していたそうですが、その願いは果たせぬまま、来日の10年後に亡くなってしまいました。弧留島はその後、2003年に厚島と合併したそうです。
ピアニスト、グレン・グールドのファンが世界で一番多いのは日本だ、と言われますが、彼も日本の美学を愛し、一番の愛読書は夏目漱石の『草枕』だったといいます。コルトーは好き嫌いのはっきり分かれる(これはグールドも然り、ですね)ピアニストで、必ずしも万人受けするタイプではありません。
実際、あまりにもオールドスタイルだ、とか、ミスタッチの嵐、とか、コンクールを受けたら一次予選で落第だ(それには同感。だって、芸術的過ぎてコンクール向きではないんだもの)、などと言われていますが、私は彼のスタイルが“好き”ですし、私だけでなくコルトーに魅せられる日本人は、他の国と比べて決して少なくないと思います。日本人の心に彼の音楽が響くように、日本の風景、日本人の魂が彼の心に響いたのだとしたら、なんて素敵なことでしょう。
“夢みる”彼の夢の島が、日本にあったなんて…。大ピアニスト、アルフレッド・ブレンデルに「私はショパンは弾きません。なぜなら、コルトーがあれだけの名演を残しているのだから」と言わしめた、歴史的名演奏の存在があまりに大きく、弾きたくても怖くて気が引けてしまっていたショパンの『24の前奏曲』を、勉強したくなってきた私です。