第331回 Molto Moderato(モルト・モデラート)の心
ある日わたしは言いました
「あなたの心に触れられたなら
死んでしまってもかまわない
わたしの人生はあなたに出会い あなたを感じるためのもの」
するとあなたは答えます
「あなたがわたしを愛すのならば
その愛を切ってつぶして粉にして
すっかり飲み込んでしまいなさい
あなたの人生はわたしに出会い わたしを感じるためではなく
あなたが愛を伝えるための時間です
その粉を糧にして さらに大きな愛を育んでください
その粉を糧にして 心のこもったささやかな音を育んでください
そしてあなたが本当に愛する人に
その音を伝えてください」
―――何とも稚拙で気恥ずかしいのですが、ずいぶん前に書いたソネット(14行詩)です。「あなた」というのは、人ではなくてある楽曲のこと。当時から憧れ続けてきたこの片思いの相手は、シューベルトのピアノソナタ第21番です。このソネットは、21番のソナタを聴きながら、「あなた」への想いを即興的に綴ったものです。
この作品の第一楽章は、ピアニストによって実に様々なテンポで弾かれます(ある人は20分ほどですが、ある人は30分も費やしています)。でも、シューベルト最後のピアノソナタで、しかも彼の死の二ヶ月前に書かれた作品なだけに、ほとんどのピアニストが極限まで息の長いゆったりとしたテンポを設定し、そこに死の影が彷徨っているような印象を抱かせています。刹那的に訪れる死への恐怖や諦めの念が、そこここに漂っている、というような。
でも…ずっと何かが引っかかっていました。よくよく考えてみると、シューベルト自身によるテンポの指示は「Molto Moderato(モルト・モデラート=とても中庸に)」。中庸、というのは朱子が唱えた儒教用語にもなっている言葉で、その心は“どこからもとらわれることなく「真ん中」(中)を貫き、「二つの手で高みを目指す」(庸)”ということだそうです。つまり、「Aか、然らずんばBなのか?」という二者択一ではなく、「あなたとわたしで、力を合わせて新たな道を築き、歩んでいきましょう」という考え方に基づいて、権力や利害に惑わされることなく、AとB両方の良いところを進化させていこう…という概念です。
シューベルトが儒教的な意味合いを意識していたということではないにしても、この作品を書いていた時の彼は、すでに半分現世から離脱したところから自らの人生を振り返っているような、心穏やかな悟りの境地にあったのではないでしょうか。だから“Molto Moderato”だったのでは?…この作品の中で、彼の自由な魂は浮遊しながら長調と短調のはざまをたゆたい、転調を繰り返しながらメロディーを慈しんでいるかのようです。私にはそれが、時としてまるで生も死も“中庸に”受け入れて歌われる、祈りのアリア―――アヴェ・マリア―――のように聞こえてくるのです。
桐朋時代にレッスンを受ける機会にめぐまれた折に、思いがけず私の演奏をとても喜んでくださったバッハの大御所、故エディット・ピヒト・アクセンフェルト先生が、この作品のレコーディングを残していらっしゃることを知り、CDを取り寄せてつい先日聴きました。その、速くも遅くもない、この上なく自然で美しく流れるような“Molto Moderato(ちなみに、先生の第一楽章の演奏時間はリピートなしで約15分です)”に涙が溢れ、ふと上記のソネットを思い出したのでありました。
今もなお、シューベルトのピアノソナタ第21番は私の憧れです。でも、なんだか思いきって弾いてみたくなりました。シューベルトの命は31年でしたが、私はもうとっくにその時間を全うしているのです。