第330回 適宜が極意
先日、偶然NHK教育テレビの『きょうの料理』を見ていたら、番組の放送50周年記念で京都の老舗『辻留』の故・辻嘉一先生のアーカイブ映像が放送されました。辻先生は言うまでもなく、茶懐石料理の第一人者。料理の心得だけでなく、季節の食材に対する意識、器へのこだわりや本当の意味での“もてなし”について…などを、後進に懇々と諭してこられた方です。
かねてから先生の著書『料理心得帳』を愛読していたので、ついその映像に釘づけになってしまいました。ゆっくりとしたなかにも厳格な信念を感じさせる話し口、無駄のない手つき、自然な姿勢…。「味は食べる方を思いながら、決めていくものです」「味をきくときには、目を瞑って神経を集中させること。ざわざわとした気持ちではいけません」「味加減は分量ではなく、自らの感覚で体得するものです」それらは演奏の心得ともだぶり、いちいちにふむふむ、とうなずいてしまいます。そんな先生のご出演当時のテキストでは、材料表の分量がなるほど“適宜”となっていました。肉も魚も野菜も、そして調味料も、ほとんど分量は“適宜”。
曰く、「味の好みは人によって違うし、それ以前に素材の水分、甘味なども季節によって違う。湿度によって味の感じ方が変わる場合もあるし、病み上がりの方と運動をたくさんされた方の夕食では塩分も変えなければならない。従って、分量を断定することはできない」。
バッハやハイドンの譜面も、ごく最小限の“材料(音符)”しか書かれていません。例えばフォルテ、ピアノやクレッシェンドといった強弱記号、スラーやスタカートといった奏法からアゴーギク(テンポの変化)に至るまで、原典版にはほとんど何も記されていないので、演奏者はそれを、時代のスタイル感などを踏まえて、自分の感覚で判断していかなくてはならないのです。テンポをどうするか、ペダルはどう踏むか、このフレージングは…など、ほどんどすべてが“適宜”の世界です。とは言っても、それは自己流、とか自分勝手、といったものとは対極をなすもので、根底に作品(食材)への深い理解、洞察や敬意、聞き手(召し上がる方)への思いやりに支えられたものでなければなりません。
例えば、辻先生は料理の片隅にもる練りからし置き方や硬さにすら、相手への“思いやり”を忘れません。「ここに添えるからしですが、からしを好まない方もいらっしゃるのですから、その方がよけやすいような硬さにしておくことが大切です。そのためには、召し上がっていただく一時間前に練っておくことです。そしてこの、隅に置く。そうすればからしが出汁汁に溶け出すことなく、さっと懐紙に取っていただけます。」
器への盛り付け方もご自身できちんと色紙に墨でスケッチをお書きになったものを用意され、それを差し示しながら解説されます。食べる前、食べている間、そして食べ終わった後にすら、卓上の美しいレイアウトを想定されているような、徹底的な美意識を感じさせるものでした。
ご自身が心づくしの技とセンスで周到に準備し、なおかつそれと気づかれないほどさりげなくお料理を出して、知らず知らずのうちにお客様の感覚を呼び覚まし、舌だけではなく心からの満足を提供する…そこには本当の文化を体得してもらうための、厳しい姿勢がありました。映像はものの20分ほどでしたが、高校生の頃に少しだけたしなんだ茶道の中で学んだ『一期一会』は私のテーマの一つなだけに、とても興味深い時間でした。
若い時は懐石料理にあまり興味を抱くことがありませんでした。美味しいものはちょこんとひとくち上品に、ではなくて、がっつりしっかり食べたいし、あまり畏まらずにわいわい楽しく食べたい!…と。でも最近は、心づくしの技とセンスで調理された必ずしも高価ではない食材による料理を、舌だけではなく目も心も鼻も総動員して味わうことこそ、自分の感性と向き合い、それを呼び覚ます…という大人の“愉しみ”なのでは、という気がしてきました。
それはゴージャスな素材(例えば、有名な曲?)に目もくらむようなテクニックで、ある意味分かりやすく人にアピールするよりもずっと難しいことでしょう。でも、やはり私はさりげない簡素な作品のもつ掛け替えのない素晴らしさを身を粉にして引き出し、それをお伝えすることができるようなピアノ弾きになりたい。よい料理人が、初めてたらの芽を口にした方に「なんて季節の恵みとはありがたいものでしょう!」…と、感じさせるように、その作品を初めて聴いた方に「なんて素敵な音楽の恵みでしょう!」と感じていただけるような料理人になりたい…。
辻先生、貴重な教えを、ありがとうございました。