第326回 ただ、弾きたくて
大好きな友人が遠くに行ってしまうとき、お別れに一冊の本を手渡してくれました。「この人の詩を読むと、美奈子さんが浮かぶの」という言葉と一緒に…。昨年享年79歳で亡くなった、茨木のり子さんの詩集でした。確か、高校時代に教科書か何かで彼女の詩に触れた経験はあるのですが、まとめて読むのは初めてでした。以来、その本を時おり紐といて、愛読しています。
「私達はただ、書きたくて書くんだっていうことをずっとやってきました。今の人は、書き始めから賞をねらったりするっていうのが多い。あれはちょっと違うなっていうことです。ただ脚光を浴びたいっていう、それで書いてちゃ駄目なんですよね。」
生前の茨木さんのコメントです。読むたびに、“書きたくて”のところを“弾きたくて”に勝手に置き換えて、頷いてしまいます。弾きたくて弾く。食べたくて食べる。生きたくて生きる。…人間の営みはそもそも、とてもシンプルな動機に根ざしているはずなのに、どうもその辺がぶれてしまいがちです。そして、そのぶれがしばしば、災いを引き寄せてしまったりするような気がします。
美しいと思うものを美しいと感じ、好きと思うものを好きと感じていられたら、それだけで結構幸せなはずなのに、“感じること”を脇に置いやって、“やるべきこと”に追われてばかりになってしまったら…。それこそ、人間にとっての一番の危機なのではないでしょうか。次の『自分の感受性くらい』は、彼女の詩の中でも特に好きなものの一つです。
『自分の感受性くらい』
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
ご本人によると、この詩の種子は戦時中に遡るのだそうです。美しいものを楽しむことが禁じられ、生活から芸術・娯楽が消えていく中で彼女が強く感じていたことが、凛とした言葉の端々からストレートに伝わってきます。茨木さんの感性はさらにシンプルに、ピュアになって、73歳の時の『倚(よ)りかからず』という作品に至ります。
『倚(よ)りかからず』
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
こんなまっすぐな表現に触れるたび、自分もまだまだ夢を諦めたりせずに、信じたものを目指していこう、という気持ちになります。そして、そんなふうに人を励ますことが出来る、優しくて強い人になりたい、と、心から思うのです。
今年も、いい春を迎えたいものです。