第325回 レッスンへのおさそい
昨日は久しぶりに一日ゆっくり、外を散策して過ごしました。沈丁花の香りを感じ、鶯の鳴き声を聞き、小さなつぼみが膨らんできた桜の枝を眺めながら、うららかな風を受けて一歩一歩、大切に歩きました。確かな春の息吹を全身に感じるとき、素晴らしく変化に富んだ、自然のうつろいそのものが芸術であるような日本という国に生きていることを、心から嬉しく思うのです。
この時期は、新学期に向けて、さまざまなお教室の広告チラシもよく目にする頃でもありますが、そういえば自分のピアノ教室の広告をまったく考えていないな、ということに、ふと気づきました。演奏活動をしながらのピアノ教室なので、もともと楽器店の教室のようにはたくさんの生徒さんをレッスンすることが出来ないのですが、それにしてもチラシを作るとか、もう少しコマーシャルもしなくていいのかしら。曜日によっては、レッスン枠にまだ空きがあるのだし…。
と、表では(?)気にしつつ、実際にはほとんど実行する気がないのでした。だって、今すでに、数は多くないけれど素敵な生徒さんたちに、本当に恵まれているのですもの。左団扇で生活できるようなレベルではありませんが、車が欲しい、とか、ブランドのお洋服が欲しい、なんて分不相応な贅沢を望まなければ、なんとか女一人生きていくに足るだけの収入もあるのだし。あ、それだけではありません。昨日のようにのんびりとお散歩したり、たまに会って日頃感じていることや、悩んでいることなどについて、とことん語り合える友人と過ごす“楽しい時間”、という、何より贅沢なものも、ちゃんとあるのです。
一度、びっくりしたことがありました。過去に出した広告をみて、体験レッスンを受けに来られた方だったのですが、レッスンを受けた後、4歳のお嬢さまにお母様が、こともあろうに「○○ちゃん、どうする?この先生にする?他の先生にする?」と、聞いたのです。別に、今その場での決断を迫ったわけでは勿論ないのに、私の目の前でそれを聞かなくても…、ということにも違和感を覚えたのですが、4歳のお嬢さまにそれを決めさせるということはそれ以上の驚きでした(この“事件”については、実は数年前のこのエッセイで『子供が決めるの?』というタイトルでお話ししているのですが)。
中学生くらいになって自我も出てきて、ある程度経験もある子供ならまだしも、弱冠4歳の、これからピアノをはじめる子供に決めさせるなんて。それとも、それをおかしいと感じる私の方がおかしいの?…混乱と軽いカルチャーショックを感じたのを覚えています。判断できない子供を、きちんと責任を持って導いてあげるのが教育だし、大人の役目の一つだと認識していたので…(結局、その4歳の子は「他の先生」を選んだようで、内心ホッとしてしまったのですが)。
コンサートや、CDを聴いて私を知って下さったり、このホームページから共感してアクセスしてくださる生徒さんのなかには、もう長い年数にわたって、公私ともども(?)よいお付き合いをさせて頂いている方もいらっしゃいます。ピアノのレッスンを通して、人生、家族、夢など、様々なことについて感じることが深まったり、プロとかアマチュア、あるいは先生と生徒、といったカテゴリーを超えて、ざっくばらんに話し合うことができた時、“芸術”、“音楽”、そして“ピアノ”を限りなく愛するもの同志、豊かな時間を共有できる幸せを覚えるのです。チラシのような広告で、不特定多数の方に私の、この不器用にしてどうにも一途な(?)、音楽への情熱をお伝えするのは、とても難しい…。少なくとも、私の稚拙な文章力では、とてもそんなこと出来そうにありません。実は、広告チラシに消極的になってしまう本当の理由は、このあたりなのです。
私にとって生徒さんとのレッスンは、じっくりと時間をかけ、自分と向きあい、一対一のコミュニケーションの中で対話しながら自分の表現を見いだし、感じ取り、作り上げて行く、芸術の発明・製作・体験の現場です。そこは、戸惑い、緊張、、試行錯誤、考察、挫折、克服、達成、感動、幸福…それはそれは色々な感情や経験のるつぼなのです。
生徒さんには上手く弾くことよりも、四季をもたらす自然の大きなチカラにも似た音楽の息吹を深く感じ、それを本当の意味で楽しむことを学び取って、無限の幸せ感(ちょっとオーバーですが、そう感じることがあるのです)を育んで欲しい…。そんなことを願いながら、日々レッスンに励んでいます。時々テンションが上がりすぎてしまうのがたまにキズ、なのですが。