第320回 そこに学びがあるから
ん~!いい匂い!!今オーブンから漂っているのは、大好きなスパイスパンプキンチーズケーキの焼ける匂いです。シナモンとカルダモン、それにジンジャーのパウダーが入る、ちょっと大人風味のチーズケーキ…。冷蔵庫の内部事情が反映されて、サワークリームを入れたり、ない時はヨーグルトで代用したり、オレンジの絞り汁を入れたり入れなかったり、クリームチーズとパンプキンピューレの割合もまちまち…といった具合で、材料の配分は毎回微妙に違うのですが、それなりに美味しくできるのがまた嬉しくて、つい繰り返し作ってしまいます。
これがプロとなったら、そんなのん気なわけには当然、いきません。毎回仕上がりがブレないように、確かなレシピを持っていないといけないのは勿論のこと、気温や季節性によって異なる素材の甘味や水分量なども加味しながら、調整なり判断をしていかなければならないのですから。いつも変わらないものを提供するためには、並々ならぬ経験と洞察が必要、ということになります。
そういえば以前読んだ誰かのエッセイに、ある稲作農夫の方のコメントが紹介されていました。「この稼業には、初心者もベテランもない。毎年気候が異なるから、前年までの経験がモノを言わないんだもの。だから、みんな同じ初心者なんです」
それは謙遜も入っているとも思いますが、そういう部分や心境はよく分かります。ステージもそうだから。一回一回、これで大丈夫だろうというくらい念には念を押して(?)準備しても、必ず何か起きるのです。練習の時に、無意識に力が入りすぎたとみえて指や手首を痛めてしまったり、当日になって突然腕が鉛のように重くなったり(これも、前日の練習のありがたくない“成果”によるものと思われる)。
「ステージに立って拍手をもらう快感を一度経験したら病み付きになって、もうやめられない」なんていう話を聞きますが、私の場合、どうもそれは当てはまりません。拍手は勿論嬉しいけど、それ以上に色々な反省点が頭をめぐってきて、快感どころか「失礼しました!」という気持ちになるのが常なのです。やめない理由は拍手でもなんでもなく、ただピアノが好きだから。パンプキンチーズケーキの匂いが好きなのと同じように、これはもう生理的本能として、です。あるいは、たまたま自分は音楽に触れ、人前で弾く経験を重ねることから色々な「気づき」や「学び」のきっかけを得るタイプの人間なのだ、ということを、感覚的に理解しているのかもしれません。
だから、才能があるからピアニストをしているのだ、なんていう感覚はこれっぽっちもないのです。今回のSYMPOSIONのように、依頼公演ではなく自主企画のリサイタルなのに、お客様をお待たせして拍手の中登場する、ということすら気が引けるほどで…。できることなら、私が先に会場にスタンバイしていて、ゲストの皆さんをお迎えしたいくらいです。
でも、ちゃんとチケットを買っていただくのは、それによって私にプロとしての責任が発生するから。つまり、プレッシャーです。プレッシャーがあるから、その分真剣にもなるし、そこから学びうることも大きくなるのではないでしょうか。最近は何かと大人がそれを奪ってしまっているようにも見えるのですが、子供の成長のためには、ある種のプレッシャーをたまに体験させるのは、悪いことではないと思うのです。むしろ、大人が思っている以上にそんな刺激、試練をきちんと受け止め、消化して自分の糧にする能力を、子供たちはもともと、ちゃんと持っているのではないでしょうか。
何度トライしても、なかなか納得いくものにはならないステージですが、それでもどうしても離れられないのは、きっとまだまだ私には、そこから学ぶべきものがあるからなのでしょう。すごく好きなもの(人も)に直面した時に、素直に謙虚になれる感じは、正直いって嫌なものではありません。グリーグやシベリウスとの“恋愛”経験からは、どんな学びを得ることになるのでしょう。
あ。どうやらケーキが焼き上がったようです。今回は出来栄えは、どうかな?