第319回 死という名の音楽

それは、いつもこんなふうに、ひたひたと音もなく忍び寄ってくるのです。気づいたときには、もうにっちもさっちもいかないほどに接近していて、そうなったらもう、どう転んでも逃れることはできません。実際、夢の中にまで襲いかかってくるのです。

「それ」とは、「コンサート本番」。来月3日、16日にそれぞれ仙台と東京で行われるリサイタル『SYMPOSION』の第二回目です。準備は練習だけでなく、お手伝いのスタッフや当日のプログラム作成など、雑務も全部、やらなければならないというのが辛いところですが、いつものことながら半分は楽しんでやっています。

さて、今回は、もともとオリジナルのピアノ作品ではない曲をいくつか弾くことになっています。前半のグリークの組曲『ペールギュント』の“朝”、コンサートの“トリ”で弾く、後半のシベリウスのかの有名な交響詩『フィンランディア』、そして劇音楽『クオレマ』から“悲しみのワルツ”です。

この、クオレマというのは死という意味。つまり、当日演奏する“悲しみのワルツ”は、『死』というタイトルの劇音楽からの一曲、ということになります。暗く重い雰囲気の漂う作品ですが、シベリウスの交響曲以外の管弦楽作品の中ではフィンランディアについで有名なのです。その“劇”の内容は、次のとおり。「死が近づいている女性がベッドに横たわっている。傍らに彼女の息子が付き添っている。夢うつつの中で彼女はワルツを聞き、それにつられて起き上がる。幻の客とともにワルツを踊る彼女。クライマックスに達した時、ワルツは戸口をノックする音によって破られる。幻の客の姿は消え、戸口には死の影が立っている。」

どうしましょう。この悲しさ、やりきれなさ…。中間部のワルツも、夢うつつでまさに亡霊が踊っているような、どこか不気味な感じだし、その“ノックの音”の後は狂気と死の恐怖が炸裂するような激しい場面が展開するのです。しかも、エンディングはあっけないほど唐突に訪れるし…弾いていても聴いていても、初めは戸惑いを感じました。

でも、弾き込んでいくうちに、なぜか惹かれていくのです。気がつくと、憂いを含んだメロディー、ドラマティックな構成、というだけではない“何か”に、魅了されているのです。それが何なのか、やっと少しずつわかってきました。それは、“死”の反対にあるもの…“生”の尊さ、そして美しさです。死のシーンを描くことで、生きていることが特別で、恵まれていることのように受け止められるような感じ、というのでしょうか。死から目をそらさず向き合うことから、生きているのは当たり前のことではなく、輝く光に満ちた、感謝すべきことのような気がしてくるのです。

シベリウスは二歳の時に実の父と死別しています。彼にとって死は、物心つく前から当たり前のように存在していたのでしょう。家庭が破産して里子に出されたり、と、苦労の多い少年時代でした。そんな時に出会った音楽が、どんなに彼の大きな支えになったかを想像するのは、難しいことではありません。初めはプロのヴァイオリニストを目指し、親戚や知人からお金を工面してもらってドイツに留学するも、師匠から「(ヴァイオリニストを目指すのは)止めておいた方がいい」と宣告され、挫折。それでも、人に好かれる魅力を持って生まれた彼は、作家のヤーネフェルトや画家ガレンカッレラなど、お互いによい刺激を受け合える仲間と、何よりもアイノという素晴らしい伴侶(ヤーネフェルト家のお嬢様!しかもド級の美人)に恵まれます。そして、交響詩『フィンランディア』で一気に大作曲家として認められ、後はフィンランド政府からの終身年金を受け、91歳の生涯を閉じるまで、美しい妻と共に自然豊かな郊外の別荘住まい…という、世にもうらやましい人生を過ごしました。

恵まれた後半の人生ですが、その作風には常に、超自然的なもの、あるいは人間と自然、ひいては生と死…といったテーマがどこかに感じられるし、晩年の作品にも、安穏とした平和ぼけしたようなところは感じられません。それどころか、一貫して非常に厳しく、自己を突き詰めていく姿が見受けられ、人生の後半で恵まれていた分、少年時代は苦労が並外れて大きかったのでは、という気がしてきます。健気に、そして気丈にがんばって生きている才能豊かな少年を、神さまはちゃんと見ていらしたのでしょう。

『クオレマ』はそんなシベリウスが38歳の時に書いた作品です。奇しくも私とあまり変わらない年齢。この作品を弾いていると、人は死ときちんと向き合うことから、日々を、そして瞬間を大切に生きよう、という気持ちに自然になるような気がしてきます。さて、聴いて下さる方はどんなふうにお感じになるのでしょうか…。

2007年01月24日

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