第317回 遊びましょ!
ちょっとしたきっかけがあって、久しぶりに漫画を読みました。現在も某雑誌で連載中の、一色まことさんの『ピアノの森』という作品です。
正規の音楽教育を受けずに母子家庭で育った、特殊なピアノの才能をもつK少年と、彼とは対照的に音楽家の家族に生まれ、ある意味で理想的な環境の中で、恵まれた音楽教育を受けたS少年という、二人の男の子が主人公です。音楽を通して、また、様々な人との貴重な経験を通して、二人ともがお互いに影響を受け合いながらそれぞれに成長を遂げていく様子が、ファンタジックなタッチで描かれている物語で、小説とはまた違う漫画独特の魅力を、久しぶりに楽しみました。
日本、というと外国では、今や車とか電機メーカーを差し置いて、「アニメ!」「漫画!」を連想する人が多くなったようですが、そのルーツ(?)は意外に古く、江戸時代の葛飾北斎が書いた『北斎漫画』がその元祖とも言われています。その面白さ、分かりやすさと親しみやすさ、そしてユニークなオリジナリティーや高い芸術性は、たちまち遊び上手の江戸庶民の間で人気を博しました。それどころか、『北斎漫画』のページの断片が、パリ万博に出品する伊万里焼などの陶器の包み紙に使われたところ、当の焼き物よりもその包み紙の方がゴッホやマネ、ドビュッシーといった当時の前衛芸術家たちの目に留まって、大きなジャパネスクムーブメントを起こしたきっかけになったことは、広く知られています。
話は変わりますが、先日、とあるジャズピアニストの方とセッションをする機会がありました。「これ(バッハ)、こんなふうに遊んじゃったりして。あ!こういうのはどうかな?」持ち前のアドリブセンスだけでなくシンセサイザーも駆使して、もう自由自在。私も一緒にピアノでアドリブに加わりますが、彼にリードしてもらうと一つの曲を何分でも何十分でもアドリブを入れて弾いていられるのに、自分でもびっくりです。「あ~、いいな。面白いね。美奈さんと遊んでもらって、幸せな日だなぁ…」いえいえ、トンデモない!遊んで頂いているのは私の方で…。子供のように(失礼!)屈託なく音楽にスッと入っていって、どんどんそれを遊んでしまう彼の姿は、演奏の面ではほとんどクラシックの世界しか体験したことのなかった私にはとても新鮮に写りました。夜の8時半に始まった“セッション遊び”…。気づくと、11時をまわっていました!「…秋田の山奥の温泉に3日間行ったが如く 癒された。この世に 神も仏もいる!」その日の彼のブログ日記です。
譜面に書いてあることは勿論事細かに、しかも譜面の向こうに潜んでいる、書かれていないことまでを解釈し、イメージや構成を考えて表現を作っていくクラシック音楽が、読解に時間も脳も、時に忍耐(?)も要するけど大きな感銘や示唆を得られる純文学なら、その時々、譜面はコードをざっとおさえる程度であとは“ノリ”や“感覚”でどんどん刹那を楽しんでしまうジャズは、漫画に例えられるかもしれません。どちらがいいか、正しいか、なんていう野暮な話ではないのです。どちらも真剣にやればやるほど面白く、半端な気持ちではちっとも楽しめない、という点では同じです。それはちょうど、『森のピアノ』に登場する少年二人ともが、まっすぐに、ひたむきに、それぞれに音楽に真摯に向き合っているのともだぶります。
セッションを初体験し、やっぱり自分は音楽が、そしてピアノが好きなんだ、と改めて認識できたことの幸せを感じました。何かを“好き”と感じる気持ちや、“心地よい”と受け止める感性を確認できることこそ、彼の言うように、人間にとって必要な、湯治の効果にも似た“癒し”の正体なのかもしれません。ヒトにとって音楽ってきっと、お湯の“有効成分”であったり、時にヒノキの香りだったり、はたまた、偶然湯船で隣り合わせた知らないおばちゃんとの、裸同士のコミュニケーションの楽しさだったりするのです。
ふと気になって、“遊び”という言葉を調べてみました。「心身を開放し、別天地に身をゆだねる意。神事に端を発し、それに伴う音楽・舞踊や遊楽などを含む」という説明の後に「①神楽をする。転じて、音楽を奏でる」とありました。ちなみに、他の意味として「④子供や魚鳥などが無心に動きまわる。」や「⑤他の土地に行き風景などを楽しむ」と続き、「酒色やばくちにふける。また、料亭などで遊興する。」という記述は⑧番目でした。
やっぱりミュージシャンたるもの、“遊び”(=心身の開放!)は大事だったのです。「ミナコには遊びがたりないな。ひょっとして君、お酒飲んでピアノ弾いたことないんじゃない?やってみるといいよ」そういえば、外国の先生に、レッスンでよく言われたっけ…。