第307回 誕生日雑感

昨日また一つ、歳が加わりました。もうこうなると、一つくらい数が増えたからってどうってことないようなものなのですが、今年はいつもになく沢山の方からお祝いのメッセージや贈り物を頂いて、感慨無量な一日になりました。

遠いところにいて会えない友人が、日付が変わった直後に「お誕生日おめでとう!」のメールをくれたり、普段会えない方が私の好きそうなワインを見繕って、メッセージを添えて贈ってくださったり。家にお花を持ってきてくださった方、その日のレッスンの時に、ケーキと一緒にすてきなプレゼントをそっと手渡してくださった方(私の好きそうなピアスを、周りの方に相談しながら迷いに迷って選んでくださったそうです)…。夜、家にいらして「ハッピー・バースデイ!」と言って、美味しいプレゼントを手渡ししてくださったご夫妻も!そうそう、関西の大学で医学の勉強している教え子さんは、何処で見つけたのか、私の星座のイラストと誕生日の入った可愛らしいテディ・ベアのお人形に、これまた私のツボを直撃するような京都の干菓子をそえて、手作りのラッピングで贈ってくれました。嗚呼、なんたる幸せ!皆さま、ありがとうございました。

思えば、一年前はまだ「独り立ち再出発(“離婚”ともいふ)」直後で、何をどうしたものか、これからどうやって生きていくのか、手探り状態でした。今も、迷ったり反省したり、落ち込んだり…というのは変わりませんが、それでも少しずつ、前を見ながら素直に自分の道を進んでいこう、と、楽観的な気持ちになっています。もしかしたら、以前よりも力が抜けてきたかも…。これはもう、温かく支えてくださる周りの方のお陰、としか言いようがありません。

例えば、人前で弾くということにしても、こだわりを持って、それを厳しく追求するという以上に、もっと違った意味での“素のパフォーマンス”を、自分のテーマとして抱くようになりました。うまく説明できないのですが、「自分の音楽をいかに作り上げるか」というよりも「いかに音楽の中に自分を融和させるか」ということを大切にしたい、というニュアンスでしょうか。「どうあるべきか」よりも「どうでいたいか」ということに素直に耳を傾けながら、ピアノにも、生活にも、向きあっていたいという気持ちです。

かなりうる覚えなのですが、パレスチナの偉大な詩人が「絶望に打ちひしがれている子供たちを笑わせることができる人がいたら、私は生涯の半分をその人に捧げよう。瓦礫の地に花を咲かせることができる人がいたら、私は生涯の残りの半分を、その人に捧げよう。」というような詩を書いています。それを読んだ時、かの地の不遇と悲劇、子供たちの笑顔、絶望の中にも決して希望を失ってはいない詩人の強いまなざし…などが脳裏に浮かび、涙腺が雑巾絞りされたかのように、どっと涙が出てきました。

人はいつも何かに向き合い、苦しみ、助けられ、求めたり求められたりしながら生きていくようですが、幸福の種子は案外そのすべての瞬間に潜んでいて、あとは気づかれ、育てられるのを待っているような気がします。どんな状況にあっても、素の自分と尊厳を失わず、しなやかに屈託なくいることができたら…。逆境も正境もなくなって、「幸福とは」なんてことにすらとらわれることなく、生き抜いていけるのかもしれません。

でも、そのためにどうしても必要な外的要素があるのです。私にとってそれは、お金でも地位でもなく、人とのつながりなのではないか、という気がしてならないのです。

この国で、自殺する子供も大人も増えています。パレスチナの子供たちは、目の前で両親を殺されて極度のショックを体験しながらも、滅多なことで自殺なんてしない。何が違うのだろう…と、ずっと気になっていました。人間にとって、一番大切な栄養素は、炭水化物でも蛋白質でもなく、人とのつながりや助け合いなのかもしれません。痛ましいことに、先進国の一部の人々は、その栄養素の失調症で息絶えてしまうのかも…。

と、考えると、こんなふつつかな私が生きていけるのは、まさに周りの人たちのお陰!感謝あるのみです。願わくば、誰かのためにできることが、何かもっとあったらいいのだけど…。あ、でもその前に、あんなに意気込んで「やる」と公言していた早朝ウォーキング、まったく実現できていないではありませんか!運動系は、どうもだめだなぁ。朝、どんどん冷え込む季節だしなぁ。せめて“早朝読書”あたりから始めようかしら…。

2006年11月02日

« 第306回 電気音体験す | 目次 | 第308回 小さなところでの大きな体験 »

Home