第300回 ノン・テイク・ツーネス

  一週間ほど前、初めてのソロでのレコーディングを終えました。録音する時にはライブコンサートに近い感覚で弾きたかったので、スタジオではなくホールで…と思い、相模湖の湖畔にあるコンサートホールを使うことにしました。いつものように弾きたいとは思いつつ、ピアノを取り囲むように設置された7本のマイクや、舞台上にセッティングされたものものしい(?)機材の数々に、やはりいつもとは違う緊張を感じてしまいました。

「これは、かなり“慣れ”が必要かも…」と、いうのが第一印象でした。…ところが、テイクを重ねて“慣れ”ていくほど演奏がよくなるとも限らないのです。ちいさなキズを気にしてしまって演奏が縮こまってしまったり、はじめのテイクと違うアプローチを意識しすぎてしまったり…。結局一発目で無心に(?)弾いたものが一番素直に自分らしかったりすることも多く、なかなか難しいものです。

「ノン・テイク・ツーネス」。コンサート活動をやめるにあたって、かの名ピアニスト、グレン・グールドはその理由をこう語ったそうです。よりよい演奏のためにはテイクを重ねるのが不可欠なのに、コンサートでは取り直しができないため、自分の求める完璧さを存分に追求できない、と考えていたようです。確かに、コンサートは一発勝負。独特の緊張もあれば、当然ミスもありえます。彼のレコーディングにおける、人間離れしているとすら感じられる演奏の完成度の高さを思うと、その発言は強い説得力を持って伝わってきます。

とはいえ、私はコンサートで弾く方にずっとファミリアです。グールドのような「マイクが恋人」という境地にすぐに切り替えられるわけもなく…。でも、コンサートでお客様と自分との間にいつも感じる温かな「気」のやりとりがない代わりに、レコーディングではディレクターやエンジニアの方の存在がとても大きな支えになりました。客観的にところどころでチェックを入れてもらいながら、聴きなおしたり録りなおししたり…。客席で聴くのとモニターで聴くのとでは、また微妙に印象が異なったりもするのです。例えば、ライブで聴いていたらまったく気にならないようなほんのちょっとの音のかすれも、モニターで聴くとよく分かって気になってしまったり…。今回、改めてレコーディングを経験し、CDという繰り返し聴いてもらう媒体を作り上げる時と、一度きりの演奏の印象がすべて、というコンサートでは、随分違う厳しさがあるものなのだ、と実感しました。

とにかく、2日間で全24曲を録ってしまわなければ…、と、勢いこんでのぞみましたが、結局ほとんどを一日で録り終えてしまい、翌日は気になったものを少し弾きなおしてみたり、前日のテイクをゆっくり聴き直したり、と、のんびりと過ごしました。すべての工程を当初の予定を大幅に上回るペースで早々と終え、長丁場に備えた私の炭水化物の備蓄は消化されずじまい。ホテルの朝食がバイキングだったので、「体力が勝負!」とばかりに、大盛りごはんに納豆、焼き魚に卵焼き、筑前煮や切り干し大根の煮物にお味噌汁、ポテトサラダにヨーグルトなどなど…をしっかりと平らげたのですが。初日、相模湖のホールに入る時に、「きっと二日後にはかなり痩せることだろうな」と思っていたのに、随分余計なお肉がついた結果になりました。

もちろん、色々を気にしはじめたらとても2日では足りない、という結果になったのだと思うのですが、テイクを重ねるにつけ、やはり飾らないのびやかなものにしたい、という気持ちが強まってきました。グールドのようにこだわり抜いて、彼のゴールドベルク変奏曲冒頭の“アリア”の録音時のように21回目のテイクでやっと納得、というのもすごいことですが、ピアノに向かっているうちに、なんだか「あまりきちんとメイクしないで、普段着のままで弾きたい」という気分になってしまったのです。

24曲は、24節気にちなんで選曲しました。この夏初めてフィンランドを訪れて、自然を愛し、自然と共に生きているフィンランドの人々に触れました。日本人にとても近いものを感じ、私たちにとっての“季節感”の象徴である暦、24節気の折々のイメージの作品を、フィンランドのさりげなく、ささやかなピアノの小品の中から選んでみたいと思ったのです。

そこには「白露」「霜降」「穀雨」「芒種」…暑さ寒さだけでなく、農作業にまつわる意味も含まれた美しい日本語が並びます。地球で命を授かった生き物として、自然の中でただ「生きる」ことの掛け替えのなさ。多くを望まず、周りの人々と共に豊かな時を淡々と重ねていく幸せ。…聴いてくださった方が、自分にとって本当に大切なもの、大事にしていたいものは何なのか、を、慌しい時間のすき間にふと、足を止めて考えてみるきっかけになるようなアルバムになれば…という思いを胸に、弾きました。

どんな出来上がりになるのか、ちょっと怖くもあり楽しみでもあり…。未来の自分に会いに行くような気分って、こういう感じなのかも。

2006年09月14日

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