第299回 無邪気でいたい
フィンランドのピアノ曲を勉強しています。来週、神奈川県相模湖のほとりのホールで、シベリウスやパルムグレンといったフィンランドの作曲家のピアノ作品をレコーディングすることになっているのです。コンサート前とはちがった緊張感に、しばしば戸惑っています。
例えば、今日は集中して弾こうとしても何やら涙がでてきてどうもうまくいきませんでした。慣れないソロでのレコーディングを前に、自分の状態が不安定なのはある程度分かっているのですが、どうも気分だけではないようです。悲しい涙でもつらい涙でもなく、かといって作品の素晴らしさに感涙!というドラマティックな性質の涙でもなく…。
ところで、どうして20世紀になってなお、彼らはこんなに屈託なく、ある種ロマン主義的でしかもピアニスティックでもない作品をこんなにしたためたのだろう?12音技法とか新古典主義やら原始主義、といった芸術音楽の新しい流れはいくらフィンランドが北の国だからといっても入って来なかったということもなかったでしょうに。なんてその音楽は、さり気なくて自然体なのだろう…。作曲技法、形式、方法論(メソード)、演奏効果。どの言葉もなんだか白々しく感じられるほど、楚々とした素朴な佇まいをみせ、かつ凛としていて…、どうやらそれが自分の中でくすぶっている何かを刺激し、涙を呼んでくるようです。
それらの作品からは、多くの人に感動を与えるにはどうしたらいいのだろうか、とか、もっと自分の能力をアピールするには…、といったことから開放され、あたかも魂が『無』『空』になっているような印象を受けます。あるいは交響曲では、シベリウスはある程度「名声」「評価」「成功」ということを気にしていた部分があるのかもしれません(確かに素晴らしい作品ばかり!)。ヴァイオリンもシベリウスにとっては特別な楽器でしたが(若い頃、ヴィルティオーゾヴァイオリニストを目指していた)、50歳になって初めて自分のものを手に入れた、と言われるピアノという楽器は、彼にとってまったく違う、いい意味での息抜きのできる存在だったのかもしれません。
和声や調性の扱いの自由さは、意地悪な見方をすれば“不確か”にも聞こえます。でも、不確かなものがよくないなんて、いつ、誰が言い出したのでしょう?日々うつろう自然や人の心…。そもそも、世の中の美しいもの、大切なものはもともと不確かなのではないでしょうか。そこに確かなものを求めるから、悲劇になったりするのでは?
しっかり記憶していないのですが、ムーミンのお話しにトゥーリッキという登場人物がこんなことを言う場面がありました。「今オーロラのことを考えていたの。オーロラってただ見えているだけで、本当には存在していないのか、どうなのかって。でも、考えてみたら世の中って、そんな不確かなことばかりね。だから私たち、安心していられるのよね」以前は最後の逆説的なくだりがどうも引っかかっていたのですが、今は少し分かるような気がします。
不確かなものを愛せる人が、きっと本当の意味での幸せ(これまた、不確かなもの!)の中に生きることのできる、無邪気な人なのかも…(“邪”な“気持ち”が“無い”!)。シベリウスらの作品を弾いていると、“邪”なことにとらわれている自分がなんだか情けなくなったり、それを許してくれるような彼らの音楽に慰められたりで、泣いたり笑ったりの忙しい練習になってしまうようなのです。
そんな私の不器用な心の葛藤が、音にうつり込んだりするのでしょうか?そうであって欲しいような、それはちょっと困るような、フクザツな気持ちです。
*9月7日の更新はレコーディングの最中にあたるため、お休みいたします(次回更新は9月14日です!!)