第296回 人はやさしく陽射しはつよく ~フィンランドで白夜焼け~④

フィンランドに行ってきた、と話すと、多くの人から「フィヨルドは見てきた?」とか、「やっぱりバイキングのお店が多いの?」などと訪ねられたのは、意外でした(ちなみにそれらはノルウェーのものです)。つい最近まで、私もそれらを『北欧』、とひとくくりにしてしまっていたので分からなくもないのですが…。一言で『アジア』といっても、国によって宗教観も文化や歴史的背景や民族性も違うのと同じように、北欧といっても実に様々なのです。

ヘルシンキで訪れた『アテネウム』と『キアズマ』という二つの美術館は、どちらも印象的でした。

アテネウム美術館の方は、主に18~20世紀にかけての北欧の芸術家による絵画が収められているのですが、一つ一つの作品を見進んでいくうちに、フィンランド、ノルウェーやスウェーデン…北欧のそれぞれの国の画家たちの、明らかな傾向の違いを感じられるようになってきました。例えば、暗い嵐の空にドラマティックな絶壁、荒れ狂う海の激しい描写…といった題材はノルウェーの絵画に多く見られ、構図やテクニックのしっかりしたアカデミックな傾向はスウェーデンのものに強く感じられたり、デンマークはまたそのどちらとも違う端正さ、緻密さを持っているように見えました。

そこへきてフィンランドのものは…、というと、題材も構図も実に素朴。強すぎる主張や構図の妙、というものよりも、日常の一見何でもないテーマを、余計なフィルターや理論をあえて取っ払い、“素(というより、“無”に近いものかも…)”の感覚で描いているような印象を受けたものが多かったように思いました。そんなフィンランドの芸術家による作品が素晴らしいのは、さりげない手法の中に、それぞれの揺るぎない独自性や豊かな感性…といったものがきちんと表現されている、というところです。ふと、フィンランド人の作家トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の11月』の中の「スナフキンは、最高の伴奏をしました。だからみんな、スナフキンがハーモニカをふきおえてから、やっと、音楽がなっていたことに気づいたのでした。」という一節を思い出しました。

『キアズマ』の方は、一転して現在アートの美術館。奇形、破壊、警鐘、メタモルフォーゼ(変容)、幾何学的なモティーフと生々しいものの対比…。確かに現代的なテーマや手法ですが、その表現は驚くほどシンプルで押し付けがましさが全くなく、作品のメッセージがすーっと抵抗なく体や感覚に入ってきたのは意外でした。体験型のアートも多く、それらがまたとても高い完成度を持っていて、いつのまにかぐいぐい引き込まれてしまいます。実はモダンアートは特別興味があるほうではなかったのですが、ここにはすっかりやられてしまいました。一般的な『無機的』なモダニズムではなく、表現手段がどんな形であれ、人と人とのコミュニケーション、既成概念にとらわれない発想とそれがもつ可能性…といったものが核に感じられ、まるで温かいぬくもり(体温のような?)に触れているような感覚になったのは、面白い体験でした。それどころか、「アートは“表現の自由”を共感しあうことなんだ!」と、いうことを改めて実感して、すっかり気持ちをリフレッシュさせることができたのでした。

人が健やかに自分の感性や表現に向き合い、その結果他者への理解をも深めることができた時、きっと人間の社会は豊かで成熟したものになっていくのでしょう。フィンランドの教育水準は、先進国の中でもトップを誇っています。子供たちは塾に行かなければ将来よい教育を受けられない、なんていうこともなければ、他人との比較によって不必要な焦りやひけ目を感じることもありません。豊かさとは何なのか、幸せとはどんなもので、自分はどんなふうに生きていたいのか…。そんな問いかけを、優しいまなざしで投げてくれた国でした。

白夜は予想以上でした。12時過ぎてもお昼のように陽が燦々と照っていました。日焼けなんてちっとも気にしないで、それどころか「私にあなた(太陽)のパワーをたくさん与えて!」と言わんばかりに、陽射しの強いところを好んでくつろぐフィンランドの人々を目の当たりにしていたら、なんだか私まで、日光浴の開放感に浸りたくすらなってきました。朝、出掛けに一応日焼け止めをつけるも、ここまで長時間効き目を保つことは出来なかったと見えて、随分シミソバカスが増えてしまったようですが、おそらく…いいえ、間違いなく、その数以上にたくさんの忘れがたい思い出を作ることができた9日間でした。

2006年08月11日

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