第276回 78回転のロマン
生きていて、どんな瞬間が楽しい?と聞かれたら…。迷わず「美味しいものにありついた時と、大好きな友人とのひと時!」と答えるでしょう。本当なら「家族や恋人と過ごす時」というのが解答の王道なのでしょうけれど、残念ながら恋人のいない独り暮らしの私には該当せず…。仮にそうではなかったとしても、案外いつも一緒にいるのが当たり前になってしまって、そのありがたみはなかなか実感できないものかもしれません。
先日、大学時代の友人と数年ぶりに再会しました。しかも銀座で一緒に美味しいものを食べよう、というのですから、これはもう楽しさのフルコース(神さまありがとう)!…なんだか一日そわそわと落ち着かず、結局待ち合わせの時間よりも小一時間も早く着いてしまいました。
でも、こんな時のぶらぶら歩きにも、それはそれで思わぬ楽しみが潜んでいるものです。この日は歩いていると鼻が真っ赤になるほど、冷たい風が吹いてはいたのですが、それにもめげず、トレンチコート(一応、季節感を大切にする日本人のこだわりとして、立春を過ぎたら冬のオーバーコートは着ないようにしています)の襟をキッと立てて歩いていたら…。やっぱり出会ってしまったのです。素敵なお店に!
入り口の脇に、小さな看板が立っています。昔の“ビクター”のトレードマークのワンちゃんの絵、そしてAntique Gramophoneの文字…。そう、年代モノの蓄音機とSPレコードを専門に扱っているお店だったのです。そういうお店が銀座にあるとは聞いていましたが、こんなところにあるとは!…ふらりとお店に入ると、輝くばかりのピアノの音が聴こえています。音の出所は、なんとも頼りなげな古く小さな蓄音機でした。「いらっしゃいませ。SPは特にお探しのものがありましたらおっしゃってください。」「こんにちは。…これ、アルベニスですね?」「これは…、ああ、そうです、アルベニスです。」「誰だろう?コルトーですか?」「そうです!…失礼ですが、音楽関係の方ですか?」と、ここからしばらく蓄音機談義に。
片面数分で終わってしまうSPレコードをかけるために、まずサボテンや竹でできた針を削り、装着してぜんまいを廻し…。それでも電気や電池を一切使わない、その“機械”と呼ぶにはあまりにも可愛らしい“箱”から出てくる音は、驚くほどリアルで立体感に溢れています。「鉄の針もあるのですが、植物の針に比べるとどうしても音色が硬くなってしまうんです。こうして当時は一つ一つの手順を楽しみしながら、聴こえてくる音を一回一回大切に聴いていたんでしょうね。LPレコードと違って盤の厚みも、溝もしっかりとしているので、雑音も思ったよりもずっと少ないんです。演奏家と聴き手がある意味、今より近かったのかもしれません。」
ご主人(と呼ぶには若い方でした。30代?)のお話しはとても興味深く、コルトーの音は夢のように響きました。すぐそばで弾いてくれているように聴こえるのです。「これはいつ頃のものですか?」「1930年代のイギリス製ビクターです。この真鍮の部分も、勿論オリジナルなんですよ。」「うわぁ、きれいですね!新品以上にきれいな感じ!」「当時のもの作りのこだわりには、すごい物がありましたからね。」「そういえばジュエリーも、1920,1930年代のものって、今は到底作れないような細工のものをよく見かけますね」「本当にそうなんですよね。そのわりにはこちらのモデルはお値ごろなんですよ。15万円で、針はサービスです。」
クラシックなトランクのようなデザインの箱そのものに、すでに古きよき雰囲気が漂っています。70年経っている状態の好い“使える”アンティークとしての稀少価値、そしてこの音のクオリティを考えると、決して高くはないのかもしれません。でも、おいそれと衝動買いできるわけもなく…。ご主人は美しいSPレコードのカタログを、丁寧に封筒に入れて、笑顔で手渡してくれました。「よろしかったら、ゆっくりご覧になってください」
そのあとの会食がこの上なく美味しく、楽しいものだったのは言うまでもありませんが、私はちょっと恋に落ちたような軽いショックと高揚感に包まれながら、家路に着いたのでした。幸せな一日でした。