第271回 給食が愉しみになれば…

お料理をすることと、お料理の本をながめること。どちらもイマジネーションと食欲を掻き立てられて、好きです。「食べたい!」と思う気持ちって、「生きたい!」と思う気持ちに通じていると感じています(その考え方によると、「いっぱい食べるぞ!」=「しっかり生き抜くぞ!」「美味しいもの食べたい!」=「よい人生を送りたい!」となる)。それに、料理には、その人、あるいはその国の風土や生活だけでなく、人の考え方、美意識までもが凝縮しているような気がするのです。盛り付けにも、食べ方にも地方の特徴があって、同じメニューも奥が深かったり…。そんな料理の宇宙に触れることは、大きな愉しみです。ちなみに、私の周りの友人は皆食べるのが大好きですが、豊かな感性や、自分自身の意見、こだわりといったものをしっかり持っている人ばかりです。

祖母は晩年、定期的な医師の診察を受ける必要のある老人のための介護施設に入っていました。お見舞いにいくと、まず話題にのぼるのが、食事についてでした。「ここは前のところよりも美味しいのよ」「○○病院は美味しくなかったわ」という話が毎度のように出てきます。私は好奇心と祖母の記憶力チェックのために、毎回「今日は何を食べたの?」と訊ねることにしていました。「ほうれん草をね、小さく切ってお豆腐で白あえにしたのと、魚を甘辛い味付けに煮たのに大根と揚げのお味噌汁がついてきてね…」と、トレーの上の配置を両手で示しながら、かなり正確に答えていたのですが、「で、ちゃんと食べられたの?」という質問には「食べたわよ。ごはんだけちょっと残しちゃったけど…」と、実はあまり食べられなかったのに、心配をかけまいとしたのか見栄を張りたかったのか、不正確だったのでした。

病院や施設、学校での“食”には、外食でのそれとは明らかに違う大切な部分があります。それは時として、命のため、心の健康のために、多きな役割を果たすものだからです。お母さんが働いていて、普段家庭でなかなか“おふくろの味”が食べられない子供にとって、給食でどんなものを食べるかは大きいことだと思います。

給食は、学校でのコンサートの折にいただく機会がよくあります。病院でも学校でも、管理栄養士さんがきちんと栄養素やカロリー、塩分などを計算し、理にかなった調理法で安全に供給しているとは思うのですが、衛生上の制約があって旬の生野菜を味わうことはできません。もちろん、生魚はもってのほかです(祖母はよく、「1つでいいから、鮪をにぎったのを食べたいわ」と言っていました)。でもその結果、野菜嫌いの子供が増えてしまったり、年中同じものばかりを食べるような食生活に陥ってしまっているように見えます。

もし、旬の野菜や魚の美味しさや季節による食材の違いなどを知ることができたら、きっと病気の方も子供たちも、生きるのがもっと楽しくなるのではないかしら、と思ったりします。それだけではなく、料理をしてくれる家族への感謝の気持ちや、親からの暖かな愛情をたくさん感じることができるのではないでしょうか。祖母のようなケースで思ったのは「ああ、ここの施設のどこかに、来訪者が自由に使える調理場があったらな…」ということ。一ヶ月に何回までは事前に欠食届けを出して、担当医師の許可が得られれば、外食はだめでもそういった“内食”ならよいとする、…とかいう規約があったら、どんなによかったでしょう。

もしそうだったら、食材だけじゃなくてきちんと器まで持参して、何か一品だけでも心を込めて作って、食べてもらいたかったなぁ…、と心残りです。子供たちにしろ、国が予算の組み方をちょっと変えて、学校給食設備の充実(トマトもきゅうりも生で食べられる程度の)にも少し予算を増やしてくれたりしたら…。玄米や雑穀の美味しさや、イースト菌を使わないパンの香り(パンが嫌い、という子供の多くは、イーストの匂いを敏感に嗅ぎ取っているようです)を知ったら、好き嫌いも減るのではないか…。なんて、余計にして勝手なことをいろいろ考えてしまいます。

せめて、聴いてくださるどんな方にも、少しでも心の栄養(の足し)になるような演奏が、できるようになりたいものです。いつの日か、“美味しい愉しい給食”みたいなコンサートが、できるといいな…。

2006年01月19日

« 第270回 今年もよろしくお願いします | 目次 | 第272回 夢の“ルイジ・ブレンド” »

Home