第268回 上手くできないことよりも
今でこそ、パーティー(飲み会?)をするのも行くのも好きですが、以前はどちらかというと苦手でした。知らない人(特に異性…)と親しげに話せる人が心底羨ましく、妙に構えてしまったり人見知りしてしまう自分に、落ち込んでしまう結果になることが多かったように思います。
特にアメリカでは、人が集まるとまず確実に、「何か“プレイ”しよう!」ということになります。楽器がないときはそれがカードゲームやビリヤードなんかになるし、楽器を持ってきているなら十中八九、室内楽のセッション(?)が始まるのです。当時、パーティーと同じように苦手とするものに“初見演奏”がありました。このケースでは、私には「苦手なパーティーにおいて、さらに苦手な初見をしなくてはならない」という、二重の試練が襲ってきたことになります。
しかもそれが、ブラームスのクラリネットトリオだったり、ベートーヴェンの『大公』トリオだったり…と、かなり本格的な曲なのですから、もうこれは小さくなって目立たないように息を潜めるしかない…。でも、隠れおおせるはずはありません。「じゃぁミナコ、一楽章弾いてみない?」「え〜っ。弾いたことない…」「僕もだよ。…っていうか、みんなだよ」「…」いざ音を出してみると、初めてとは思えないほどみんな上手。私はおぼつかないながらも、周りの楽器とのハーモニーの豊かさの中で弾いていくうち、だんだん楽しくなってきます。音楽で会話ができる喜びには、他のことには代えがたいものがあるようです。…それにしても、気のせいかおしゃべりが上手な人は初見もソツなくスマートにできるように見え、なんとも心憎く感じられたものでした。
でも、そんな経験を重ねるうち、パーティーで上手いこと立ち振舞って何らかのメリットを得ようとしたり、初見で評価を得るような演奏をしよう、なんてもくろんだりさえしなければ、パーティーも初見大会も、ずっと楽しめるものなのだ、ということが段々分かってきました。自分の知らない人と上手く会話がつながらなかったり、初見で上手く弾けなかったり、という、思うようにいかない様々なことも、楽しんでしまえばよかったのです。よくないのは、うまいこと話や演奏ができないことではなく、パーティーに出席していながら、それを楽しんでいることを表現しないでいることなのではないか、という気がしてきたのです。
以来、少しずつパーティーを楽しめるようになりました。楽しむことが、そこにいる人や招いてくれた人に対するマナーなのだと思ったら、あまり構えることもなく、リラックスできるなったのです(リラックスしすぎだ、という声も…)。でもやはり、パーティーに行くよりも、パーティーを開いて人を呼ぶ方が好き。パーティーでは、場を盛り上げようとして、積極的に話題をリードしてくれる人、さりげなく片付けを手伝ってくれる人、お酒をすすめるのがすごく上手な人、誰よりもよく笑って、楽しんでいることを伝えてくれる人や、静かにたたずんでいる人…、それぞれのゲストの個性がよく現れます。その人のいつもとちょっと違う一面をかいま見ることもあって、秘かに驚きを感じるのがまた楽しいのです。
会社員の方の忘年会は、仕事の延長線上の半ば強制的なもので、そんなのんきなものではないのかもしれませんが、せめてきちんと自分の家に、大人らしく帰ることができるくらいのマナーは守って欲しいです。泥酔してホームの柱に汚物を残していったり(これと歩きタバコは、どうしても許せない!「あなたはご自分の部屋にも、そのように汚物を落としていらっしゃるのですか?」と言いたくなる…)、電車の中で鞄を投げ出して座席以外の場所にうずくまっていたりする方を見かけ、なんとも切なくなります。周りの人に不快を与えないような——できることなら「快」を与えられるような——さわやかな大人になりたいものです。