第262回 外野のむこう側の声が聞きたい
桐朋学園大学に入って初めての現代国語の講義を、今でも忘れません。先生は原稿用紙を配りながら「皆さんのことを知りたいので、今日は時間内に作文を書いて提出してください。テーマは“私の好きな季節”。長さは自由です。」とおっしゃったのです。
私は迷わず、「私は、秋が好きである。」という出だししで書き始めました。当時住んでいた東北の美しい紅葉にあふれた秋、軒先に吊るされた干し柿の風情についてや、まもなく到来する長い冬を前にして、ある種の緊張感をもって過ごす秋、それでも芋煮などの行楽でその短い季節のすべてを楽しみつくそうとする人々のこと…。ある日必ずやってくる、冬のにおいのする朝までの間の秋の思いを、とりとめもなく書いたような気がします。そして、おしまいも出だし同じ「私は、秋が好きである。」というフレーズで静かに結びました。書いていたら自然に、ただなんとなくもう一度出だしと同じ文句を書きたくなってしまったからなのですが、今思うとなんだか気障です。
その次の週、皆には原稿用紙が返されましたが私にはありませんでした。それは先生の手元にあって、先生はなんと、クラスの皆に私のその作文を読んで聞かせたのです。しかも読み終わった後に、先生は「どうですか?ここの・・・・、というところなんか、いいでしょう?こんなことを、自分だけに囁かれてみたいなぁ…」なんていうコメントをつけたのです。もう、恥ずかしいやら照れくさいやら…!顔から火が出そう、とはまさにこのことでした。
ただ、秋は確かに好きなのです。自分が秋生まれだからかもしれませんし、まったくそんな因果関係はないのかもしれませんが、この季節を明確にもつ国に生まれて、幸せだと思っています。そんな気持ちが、あまり考え込んだりすることなく鉛筆の先からするすると伝わり出てきた感じは、今も覚えています。それを書いていた時、偶然にも無心だったのかもしれません。結びのリフレインも「なんだか、気障」…なんて気づきませんでした。
評価を得ようとか、何かの結果を出そうと、モティベーションをもって物事に相対することは、人間の素晴らしい向上心のなせることです。でも、“何も考えないで、頭の中の考えを表現する”ことは、意外にももっとも難しいことなのかもしれません。実際私は、うまいことやろうとして何度失敗したことか…。
でも、自分のことはよくわからないけど、人のことなら少しは客観的にとらえることができます。レッスンで生徒さんに「音をはずすことなんて心配しないで弾いてみましょうよ」、とか「この休符の“間”、考えすぎないで感じたまま弾いてみない?」とアドバイスしたとたん、スッとよくなったりするのを見るとつくづく、人の感性って自分で認識している以上に“使える!”アイテムなのだ、と思うのです。
では、感性を育てたり磨いたりするにはどうしたらよいのでしょう?…う〜ん、残念ながらよく分かりません。でも、まずは自分の内側の声に、静かに耳を傾けることを試してみようと思います。「え?それって普通はこうでしょ?」とか「そんなことしたら何て思われるかしら?」とか、ついしゃしゃり出てくる外野の声をかき分けて、その奥の内側の声に耳を傾けるのは至難の業ですが、無心で音楽と、そして人生と向き合えるようになったらどんなに素敵でしょう!いつかそんな日がくるといいのだけど…。