第257回 のびのびつくろう

先日、仙台のとある華やかな会場で開かれたヤマハの新作グランドピアノのお披露目コンサートで、弾かせていただく機会がありました。まさにできたてホヤホヤのピアノと伺って、どんな楽器なのか楽しみ半分、不安がもう半分…。なぜなら、いくらピアノがヴァイオリンやチェロのように「うんと古い楽器がよいのである」という類の楽器ではないとはいっても、一般的に全くの新品というのはなかなか“鳴らない”、“鳴らせない”ものだからです。(例えばコンサートホールなどの場合、新しいピアノは檜舞台にでる前に、一年ほどコンサート以外での“弾き込み”という作業を経るのです。)

さて、どきどきのリハーサル。…確かにちょっと表情に硬さはあるものの、音は綺麗に伸びていってくれます。さぁ、ここからが摩訶不思議。いい楽器って、まるでスキルのある馬が調教師を乗せる時のように、弾き手を見定めようとするようなところがあるのです。こちらが相手(ピアノさん)の反応や個性、好きな鳴らし方(?)を探りながら歩み寄っていくと、段々素直になってくれますが、一方的に命令して言うことをきかせようとすると、反発してきたりするのです。…かくして、限られた時間ではありましたがそこそこ有意義な“対話”と“交渉”を行って、リハーサル(相手が初めての楽器の時は、これが初デートのような気持ちになってしまうのだけど)終了。

担当の方に楽しいピアノ談義を伺いながら美味しい食事(これがあるとすごく違う!)を頂いて、さて、本番です。リハーサルの時よりもまた一段打ち解けた様子で楽器が鳴ってくれて、まずは一安心…。でも、緊張は緩みようがありません。なにせ、事前の打ち合わせで、最後の曲の前に皆さんに楽器についてのコメントを言わなければならない段取りになっているからです。

「美奈子先生、お話は慣れていらっしゃるから…」と言っていただくことがあるのですが、これが演奏と同じで、情けないことに一向に慣れるということがないもので…。お話の前の曲を弾いている最中に「何から話そう?あ、いけない、集中集中…」という状態になってしまうことが多いのです。

コメントの中で、確かこんなことを話しました。「ご存知の通り、楽器の“器”は、機械(メカ)の“機”ではなく、うつわ、と書きます。私たちが楽器に求めているのは、対話ができ、弾くほどに共感を深めて、さらにお互いに触発しあえるような“器”を持っているということなのですが、この新しいS6Bには、そんな関係を築いていけそうな、とてもよい感触を持ちました。もうちょっと弾いていたい気分ですが、次が最後の曲になります…」リハの時、今までのヤマハのピアノとは一味違う、響きの豊かさとシャープな陰影が特徴的な個性を感じたので、担当の方にお話したところ、まさにそんなコンセプトで、かなりの試行錯誤を経て開発したのです、というお答えを頂きました。

ヨーロッパにいた時は、様々な国のピアノを弾く機会がありました。東ドイツのブリュートナー、チェコのペトロフ、フランスのプレイエルや勿論ウィーンのベーゼンドルファー…。その一つ一つが個性と主張に溢れ、それが排他的なものではなく、楽器自身のアイデンティティをきちんと持っているからこそ、弾き手の意向もちゃんと受け入れてくれる、大人の度量のようなものを感じて、改めて楽器の楽しさを知りました。日本のピアノ造りが「ドイツの○○」や「ウィーンの○○」を目指すのではなく、独自の方向性を求めていくようになったとしたら、それはすごく嬉しいことです。私たち弾き手も負けずに、採算性にあまりとらわれず(あれ?)、のびのび音楽をつくっていきたいものです。

2005年10月06日

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