第243回 英国:高速飛ばしてゆっくり歩こう ④(最終回)
「ひどい…。雨が“僕に”降ってきた!」小さなファームハウスの扉を開けて入ってくるなり、ジェフが言いました。ちょうど今宵のワインは何を注文しようかしら、と、ラウンジ(というにはかなりささやかだけど…)のワインリストをながめていた時でしたから、夕食の小一時間ほど前のことだったと思います。ジェフは確かにびしょぬれですが、その表情はどこか得意げです。「“僕に”って…?今日は一日、雨が“皆に”降ったりやんだりしてたと思うんだけど?」「ちがうんだよ、僕をめがけて降ってきたんだ。僕だけを…。やれやれ。見てよ、びっしょりだ。ところで、君はここ(英国)に住んでいるの?それとも旅行?」「旅行です。両親と。昨年、母と二人で英国を旅行したのですが、あまり美しかったので今回は父も一緒に、ということになって…。父は初めて国際免許をとって、海外ドライブです。」「じゃあ、普段は日本に住んで仕事をしているのかい?」
なんでも、多くの日本人の話す英語はアメリカ英語なのに、私のはアメリカ英語ではなく、イギリス英語である、また、文章を“英語的に”考えて話していることからして、私は英国の住人だと思った、というのです。そんなことありません、と謙遜するとジェフ曰く「僕は英語教師だったんだから、間違いないよ。で、君は何の仕事をしてるの?」「音楽の…。ピアノを弾く仕事と、教える仕事をしています」「そりゃ素晴らしい!ここのリビングにピアノがあるの知ってる?今夜、ディナーの後によかったら一曲聴かせてほしいな。あ、いや、君を困らせたくないから、無理にとは言わないよ。でもお願いできたら嬉しいな」「かまいませんよ、喜んで!ただし、あまり酔っ払っていなければ、ですけど…」…結局2〜30分ほど、立ち話してしまいました。
その晩のディナーで、ジェフは父が国際免許をとり、華麗なるレーシングドライブを展開して(?)ここに来たこと、私がピアニストであることなどを見事なトークでほかの方に紹介してくれました。「それにしても、ミナコのママはすごいね。英語の先生でもないし、普段日本にいて英語を話す機会もないのに、英語で会話が出来るんだから!」ジェフに褒められて、母は気恥ずかしそうです。かつて趣味でヴァイオリンを弾いていたフィリップのお気に入りのヴァイオリニストはクライスラー、とか、父がやっていると聞けば家庭菜園についてや、手作りしているジャムについての話にもなり、彼らの話題の豊富さには驚くばかり。いいな、と思ったのは、彼らはその場にいる全員が楽しく参加できるような共通の話題を選び、特定の人の独壇場にしないところです。皆で楽しいひと時を共有できるように、というさりげない気配りのうまさには、文化的なものまで感じてしまいます。自然な成り行きで、私は食後に予定通り(?)ショパンを弾きました(ちょっと酔っていたけど…)。その後、日本の歌とイギリスの歌を歌い交わして、湖水地方の最後の夜は更けていきました。
「日本の人とはちょっと違うかもしれないけど、僕らはここ来る目的は“歩くこと”なんだ。こういう、すべてのフットパスやなんかの書いてあるトレッキング用の大判地図を内ポケットに入れて、とにかく歩く。一日20マイルくらい歩く事もあるんだよ」確かに、滅多には来られないから、と、限られた時間で出来る限りの場所に行き、沢山のものを見て帰るぞ、というのが一般的な日本人の旅行中の行動パターンかもしれません。でも、しょっちゅう来られないからこそ、多くを望まず、あらゆる天候(そういえば滞在中、雹も降りました)を受け入れ、一歩一歩を踏みしめてひたすら歩く…、という過ごし方はもっとも贅沢なのかもしれません。
翌日は再びフォードを快調に飛ばし、一路ウィスキーの本場スコットランドへ向かいました。次第に山々の表情も険しくなり、土や木々の緑の色も変化してきます。車窓をぼんやり眺めながら、今度この地に来る時にはゆっくり歩いてみたいな、と夢みていました。人生を丁寧に積み重ねるみたいに、一歩一歩じっくりと…。