第241回 英国:高速飛ばしてゆっくり歩こう ②
ターミナルが三つもあるマンチェスター空港から一般道路に出るまでが一苦労。慣れないサークルの走り方や道路の方向表示に、車内は騒然とします。「あ、違う、今のとこ左だったの」「もっと前もって言いなさい!準備があるんだから」「だって、看板の字が近くに行かないと見えないんだもん…。あれ?今のとこを左、だったのかな?」「おい!どうするんだ!?この調子じゃ、とても時間に間に合わないぞ」父のイライラは増すばかり。挙句に「引き返して車、返すか?」「お父さんったら…(これは母)」「とにかくね、“M6”っていう高速道路に乗れればあとは大丈夫なの。M6、M6…(地図を見ながら念じる)。ママ、私は地図と道路の表示を見てるから、念のため方位磁石見ててくれる?」「うん、分かった」まさに三人がかり。
三人のすったもんだとは裏腹に、車窓にはやがて、のどかな田園風景が拡がり始めます。英国特有の“青々とした緑”のじゅうたんを敷き詰めた丘陵に、草を食む羊の群れ、道路わきに咲く花々…。やがてなんとかM6に乗ることもでき、やっと一息ついて持ってきたチョコレートをほお張ります。(こういう時の甘いものの、沁みるように美味しいことといったら!)後はひたすら北へ向かいます。イギリスの道路は日本と同じ左側通行というだけでなく、高速道路は基本的に無料、インターは地名とともに数字で表記されていますし、周りのドライバーの運転も紳士的で、一度慣れてしまえばあとは走りやすいのです。
無事ペンリスのインターで降り、湖水地方北部の主要都市ケンダルのくねくね道も上手くやりすごして、いよいよ最後の道路B5289に入ります。マンチェスター空港から二時間以上、ずうっと握りしめていた地図は、この頃にはすっかりくったりと風格がでていました。「あとはこの道沿いだから。え〜っと、8マイルくらいかな」実は目指す場所の住所を分かっていなかったのです。正確には、住所が“ない”のです。ホームページにも、通りの名前しか出ていないし、どうやら田舎過ぎて(?)番地がないようなのです。場所は、ホームページによると「当方はB5289をケンダルから8マイルほど南下したところ。ホニスター峠の手前、入り口近くに赤い電話ボックスのある建物です」だそう。その旨を父に言うと、「大丈夫大丈夫、走っていけば通り沿いにすぐ分かるんだよ。ほら、あれじゃないのか?」
その「あれじゃないのか?」をその後何度経たことでしょう。メールで伝えていた約束の到着時間、6時半は既にまわっています。早く着かなくては…。でも目の前にはそれを忘れてしまうほどに素晴らしい景色が…。まるで「そんなに急いでないで、ちょっと足を止めていかない?」と誘惑されている気分です。圧倒的なスケールの山々をバックに、かのダーウェント湖はきらきらと光り輝き、時折り通過する建物のすべては想像もつかないほど古く、誇らしげに美しい花々に囲まれています。
ホニスター峠のまさにすぐ手前の牧場のわきに、目指す建物はひっそりと現れました。時刻は6時47分。呼び鈴を鳴らすと若いご主人が出てきました。「やぁ、いらっしゃい!」「ダニエルさんですね?美奈子です、初めまして!遅くなってしまって…。夕食の準備で忙しい時に、すみません。」「大丈夫ですよ。まずは部屋にご案内しましょう。その後すぐにパーキングのゲートを開けますから。荷物はこちらですね?」ダニエルはてきぱきと、でも笑顔をたやさずに言いながら、重いスーツケースを両手にひょいっと持ち上げてどんどんお部屋に進みます。数分後、私たちは他の宿泊客とともに、チェックインの手続きもなければ部屋の鍵もない(!)、17世紀に建てられたこの小さな宿の大きなオーク材のディナーテーブルについて、ワインを選んでいたのでした。